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2023/7/6 - 30

NADiff a/p/a/r/t,TOKYO

Beyond the Windows

「展覧会の文章」
 展覧会に行くと文章が会場に貼られている場合が多い。この文章はまさにそれで、制作者である梅沢和木本人が書いている。最初の個展(2009年の「エターナルフォース画像コア」)では書いていなかった。その次も次の次も書いていない。自分の個展について文章を書くのはここ2、3年でやり始めたことだ。それは初期の頃から自作について文章、批評や論評を書く人間に恵まれていたということであり、同時に自分自身について文章を書く機会を少しづつ失っていたということでもある。

 そもそも、作者が自分の作品について文章を書くという行為は批評や論評とは何が違うのか。コンセプトやステートメントと、エッセイやお気持ちテキストは何が違うのか。自分の中でいまだに答えが出ていないのが正直なところだ。しかし多くの場合、作家が個展あるいはグループ展を開催する際に展示の入り口に貼ってある文章は、その答えが正に出ているかのように書かれる。時に、そのテキストは実際に展示されてる作品や空間と本当に関係があるのかと疑問が浮かぶほど抽象的である場合でも、作家の文章というのはある一定以上の信頼を担保された上で書かれ、読まれる。自分はそういった文章を「この文章は、本当に展示内容や作品と関係があるのだろうか」と常に疑問に思いながら読んでいる。そうして様々な展示や文章を読んできてわかったのは、展示内容と文章の間にズレがあったとしても、そのズレが結果的に作品や展示を深読みさせるフックとなり、時には深い体験のようなものへと繋がることさえあるということだ。むしろそのようなズレを積極的に利用した文章ほど、批評的だとされ評価が高い場合も多い。

 展覧会における文章は、必ずしも展示内容に寄り添ったり解説していなくても良いのかもしれない(もちろん、そういった文章を否定しているわけではない)。なぜこのような前書きを書いたのかというと、今回の個展では悩み考えながらも作品自体は比較的スムーズに制作出来たが、ステートメントやタイトルが出来るまでにかなり時間がかかってしまったことに関係している。端的に言えば「なぜ今キャラクター画像を扱うのか」についての文章なのだが、自分の状態や状況が関連しているからか、前置きがないと耐えられなかった。以下が今回の文章である。


「キャラクター画像と当事者性」
 自分がなぜキャラクターの画像を用いた作品を作り続けているのか、改めて考えている。単純に述べるならば自分がいわゆるオタクで、アニメや漫画やゲームが好きで、そこに登場するキャラクターが好きで、関連した画像をインターネットで収集するのが好きだからだ。厳密に言うとキャラクターに関連したデジタルコラージュだけでなく、風景や写真など、俗にいう三次元的なモチーフも作品内で扱ってはいるのだが、最近はキャラクターに特化した造形の作品を制作することが特に多い。今回の個展でもほぼすべてがそういった作品になっている。美術という枠組みで言えばキャラクターの表象を扱った作品というのは、特に国内においては一昔前に比べると圧倒的に一般的になり、それを扱うことは最早特別でも何でもない普通の取り組みになっていると言っていいだろう。しかし、キャラクター表現*が本当に一般的になったかというと違う。オタクっぽい表象というだけで興味を持たない態度のほうがむしろまだ多数派だろう。キャラクター表現はマイナーでも一般的でもない、なんとも中途半端な位置に立たされていると言える。

 そんな状況だからこそ改めて思うのが、キャラクターにしか興味が持てない人間と、その当事者性についてだ。この人種にはグラデーションがある。生身の人間にまったく興味が持てず、二次元のキャラクターしか眼中にない人種はかなり限られるだろう。しかし生身の人間にはあまり惹かれないが、キャラクターに対しては強く感情が動くタイプの人種ならけっこうな数がいる。俗にオタクと呼ばれる人種の中にも、様々な振れ幅がある。時にキャラクターを扱った表象は美術の枠組みの中で、この種の人々を置いてけぼりにして資本に傾いて作品展開がされていると批判されることがままある。オタク表現の植民地化と言っても良い。

 自分は、キャラクターに本当に人生を狂わされてしまったような人間には、そこにしかない当事者性があると考えている。自分も、そのような意識を持っているからこそ作品制作を行っている。展覧会を見に行くときも、ある種同族とも思えるような作家をついつい見に行ってしまう。それだけではあまりに偏りが生まれてしまうので、現実の事象を扱った作品も見に行くのだが、そういった鑑賞体験も結局は自分のキャラクター表現に反映されていくのだなという実感がある。

 ここまで、キャラクター表現と当事者性という言葉で色々書いてきたが、当事者性という言葉に違和感をもつ人間もいたのではないだろうか。当事者性という言葉は、様々な現実の事件、または災害で起きた被害などの事象に対して扱われることが多い。私自身、そういった前提を踏まえた上で扱っている言葉だ。当事者性という言葉は、現実に起きた物事に使われる場合が圧倒的に多い。しかし、この文章中で扱われている当事者性という単語は、キャラクター表現という虚構のコンテンツを前提とし、それにまつわる人間の立場について言及している。それは、改めて自身の作品を肯定したいという素朴な動機に過ぎないと言えば、そうだ。自分はキャラクター表現に対して強烈な当事者性を持った作家が、適切に肯定および評価されて欲しいと考えている。現状の、特に美術の世界でそれがなされているかというと、疑問が残る。この問題は自分自身の作家活動や表現とも直接関係があり返ってくることなので、正直うまくこの文章を結論付けられる自信がまだない。数多の文脈との接続可能性を一旦脇に置き、自身の考えを整理する意味も踏まえてこの文章を書いている。それは、自分がPhotoShopで制作する際まず画像素材を一旦整理する、その行為に近い。

*ここでいう「キャラクター表現」とは、人間の形態を模したキャラクターを用いた表現を主に指している。人間ではない、動物やモンスター、ロボット、無機物など、様々なキャラクター表現が存在しているが、私の当事者性としては人間の形態を模したキャラクターに意識が向かっているので、そこについて主に言及している。キャラクター表現の中でも様々な多様性があり、それぞれの当事者性がある。そのことにも感心はあるので、個展とは別の形式で何か展開したいと考えている。

梅ラボは梅沢和木の過去作品と日々のドローイング、文章などをまとめている個人サイトです。(2005/02/22~)

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